オマージュ・ア・Abe"M"ARIA

 

ダンス批評家/武藤大祐

 Abe"M"ARIAの踊りは二年位前から、わりとコンスタントに見ている。日曜日に新宿の歩行者天国で踊っているのはまだ見たことがないのだけれども、いずれにしろこの人の公演に出かけるというのはある種特別な経験だ。特別な、というよりも、ダンスのあるエッセンシャルな部分を最大級のレヴェルで味わわされるハメになる。否が応でも。「意味なし、テクなし、コンセプトなし」だったか、そんなようなコピーが少し前まで付いていた。しかしまずどんな踊りでも、意味がなかったりテクニックがなかったりするということは絶対にあり得ない。そんなまっさらな人間はいないし、ましてやそんなまっさらなダンスは幻想に過ぎない、にも関わらず Abe"M"ARIAはそれを試みる。どういうことか。要するにどこまでもしつこくしがらんでくる意味だのテクだのを何がなんでも振り飛ばそうとする、追いすがってくるものをとにかくスピード勝負で振り切る、それが Abe"M"ARIAの踊りなのだ。時々「ただ暴れてるだけじゃん」という感想を聞く。しかしそう言う人にはまず、ここまで暴れられるガッツを見たことがあるだろうかと問うてみたい。

 子供の頃クラスの問題児みたいなのがいて、どういうわけか怒るとそれは大変な荒れようなのだった。いわゆる普通の怒り方ではなくて、とにかくどんどんどんどん行ってしまう。基本的には物を壊す・倒す・投げるが中心なのだが、教科書とか傘を投げ散らかすとかに留まらず、イスとか机を持ち上げて誰彼かまわず投げつけたりする。担任の先生も体育の先生も手を付けられなくてもう大変なのだが、しかしこういう怒りのエネルギーというのは破壊するモノがなくなってしまうと簡単にしぼんでしまいもする。イスも投げて、花瓶も投げて、机も投げてしまうと、もうだいたい挑みかかるモノがないからエネルギーが行き場を失って終息する。ここではあくまでも“エスカレートする”ということが肝心なのだ。エネルギーの活性を維持するのは右肩上がりの線であり、動機には一種の征服の悦びがある。次から次へと挑戦し、征服していく。机を投げてしまった後では、もう本とか軽いものはちょっと、投げられない。馬鹿馬鹿しくて。もっと強力なものでなければダメだ。この問題児を遠巻きに見ている我々は、不安であると同時に、けっこうドキドキしてもいる。こいつどこまで行っちゃうんだろう、と。事の善し悪しはさておき、上昇し増大しながら渦巻くエネルギーの発露というのは常に見ものなのである。火事と喧嘩は江戸の華、というが如し。エネルギーのエスカレーションに限界が見えないとき、こちらの不安と興奮はどこまでも上昇していき、そしてどこまでも上昇していってしまっているその事実がまたさらに不安と興奮を煽って累乗する。ポジとネガが手を取り合って加速していく。スペクタクルとはそういうものだろう。

 スペクタクルにおける恍惚は、それを見ている自分が超えられていくところにある。さっきの問題児がスゴいと感じられたのは、同い年の自分たちには到底考えられないような爆発力を見せつけるからだ。爆発力は単純に数値化できる量にすぎないが、そのインパクトはスペクタクルを経験する者のスケールと相関的で、必ずしも絶対値が問題なわけではない。大人になってみれば、火事や火山の方がよほどスゴいだろう。本当にヒューマンスケールを超えるのは自然のスペクタクルだ。しかしいずれにしてもこれらのスペクタクルには、ある“大きさ”というものがある。限界によって“大きさ”が規定されるという意味ではなく、相対的に測られ(得)る“大きさ”において体験されるということである。したがって結局は、スペクタクル体験の質というのはどこまでいってもヒューマンスケール、あるいはヒューマンスケールとの関わりから抜け出すことはないという逆説を立てることができるだろう。

 一度でも見たことがある人はわかると思うが、 Abe"M"ARIAの踊りにはこの種のスペクタクルに似ているところがある。テクノやパンクロックの荒波に乗って、全身ワナワナワナワナと震動が溢れ出し、緊張しきったネコが突然爪で引っ掻くような予測不能の鋭いタイミングで攻撃的な運動が着火する。つま先が浮いて両脚の踵を床にガンガン叩きつけるように歩く。右脚を蹴って頭を下にし、片足のままグルンと回転したかと思えば、ベタンと尻もちをついて何かを貪るように手を震わせ髪をかきむしり、思いついた気配もなくサッと走って客席の中に飛び込んでいく。当惑する観客の列の間を前へ後へ転がり回り、膝の上に胡座をかいてひとしきりブルブルしたかと思うと、また不意にジャンプして観客の前に躍り出る。確かに Abe"M"ARIAの踊りは、見ていて“燃える”。しかし単なるスペクタクルとは根本的に違ってもいるのだ。そしてその違いは、ダンスというものの本質に属していると思う。

 まず何しろ、Abe"M"ARIAはどこから来た何を燃やしているのだろう。Abe"M"ARIAそのものはまさにエンジン、内燃機関そっくりであるのだが、しかしその燃料はどこから届けられているのか。受動的に受け入れ利用できるものはたくさんある。床や壁や重力との接触やコンフリクト。そして音楽。この人にとって音楽はほとんど触覚的なインプットである。しかし自分で燃える、自分で自分を果てしなく燃やし続ける能動の動機については、ほとんど神秘と言ってしまいたくなるほど捉えどころがない。人間が踊り出す、踊り続けるときに燃えているものとは何か?こんな本質的すぎる問いが、 Abe"M"ARIAを見ていると強烈に意識されてくる。たとえばムチャクチャな破壊衝動が、絶え間ない挑戦と征服というモメントを糧にしているとすれば、ダンスは自分で課題を生み出ししかも同時にそれを克服していくのかもしれない。クリアーしていくエネルギーだけでなく、クリアーしていかねばならない障害をも勝手に作り出す。だから Abe"M"ARIAのダンスは、自分で勝手に育っていくように見える。

 そしてもう一つ、単なるスペクタクル体験との決定的な違いがある。ダンスにおいては、燃えるものが見る者をひたすら超えていき、見る者がひたすら超えられていくのではない、ということである。荒れた同級生や自然の災害の前では、見る者は対象の大きさとともに、ときに自分の小ささをも実感するかもしれない。あるいはより大なるものへと飲み込まれるようにして、自分が消えていくのを感じるかもしれない。いずれにせよ、それは目的をもった暴力や恐怖を核とする、ヒエラルキーの体験なのだと言える。自分とのレヴェルの差が意識されるがゆえに圧倒されるのだから。しかしブルブルする Abe"M"ARIAを見ていると、客席で静かに座っていても無意識に指先やつま先がビクッビクッと動いてしまったりする。身体的な“ノリ”が、 Abe"M"ARIAとこちらの間で途中どこを通ることもなくダイレクトに転送されてきて、結局は電位差が限りなくゼロになってしまうのだ。実際には踊っているのは Abe"M"ARIAの方であり、ゼロコンマ数秒だけこちらをリードしているわけだが、もはや彼女の“ノリ”がこちらの手に取るように、どころか、まるで我が事のように、わかる。いや我が事のようにというか、ほとんど我が事だ。ノるのもヘコむのも透けるように見えて、嘘がない。第一、嘘をつく相手がいない。自分と自分じゃないものが、踊りという出来事の中で、踊りという“場”の中で区別できなくなる。それがダンスの本質に属する快楽だということには異論の余地がないだろう。ダンスを見る者は、燃えるものに超えられていくのではない。いっしょに、一つのものとして燃え、大きくなっていくのだ。

 どこまでも自分で自分を燃やしていくこと、そして自他のヒエラルキーを無化してしまうこと。こうして Abe"M"ARIAにおいては、ダンサーと観客はいっしょに、あるいは一つの出来事の中で、ともに大きくなっていく。ときには小さくなっていくかもしれない。しかしいずれにせよここでの“大きさ”は、もはや誰との関わりももっていない。測定されもしないし、相関項として感受されもしない。いわばダンスは、もう誰にも“見られる”ことはない。ただダンスという出来事自体が絶対値として膨らんだりしぼんだりするだけであるがゆえに、またその外にある限界というものとも無縁である。こういう境地で、ダンスはヒューマンスケールから遠ざかっていく。つまり人間という尺度そのものから離脱していく。あるいは、ヒューマンスケールそのものとして大きくなっていく、つまり“人間”なるものを膨張させていくといった方が正確かもしれない。人間と人間、自然と人間などという関係ではなく、誰も傍観者のいない、誰も見ていない一個の出来事になる。そういう所にダンスの本質の一側面があると思うし、 Abe"M"ARIAはそこを中央突破でバンと見せてしまう稀有なダンサーだと思う。

 10月の「踊りに行くぜ!!」の横浜公演の前には、7月に東京で Abe"M"ARIAを見ていた。このソロ公演のときはテンションが持続せず、つっかかりつっかかりしながらその度に何とか立て直したりして結局短時間で終わってしまった。意味とかテクを放棄して、ましてや作品性などとは無縁であって、ただ神秘なその“場”の“ノリ”だけが司る踊りであるから出来不出来の差は激しい。しかし 10月の横浜では、7月のあの萎えたイメージを覆すような勢いで見事によく燃えた(同じ日の天野由起子とのコントラストは、初めて見た人にとってはきっと大変な刺激だったに違いない。ダンスというものの両極を垣間見させる二人である)。そして 11月の地元・前橋での「踊りに行くぜ!!」公演も良かったと聞き、12月にまた東京でソロを見た。やはり燃焼度は高かった。おそらく数ヶ月単位の大きなバイオリズムと、舞台上での数分単位の小さなバイオリズムが入れ子状のフラクタルになって波打っているのだろう。見るたびに色も質も何にも変わらずただエネルギーの量だけが上下しているのだが、その量の大きさはその都度その都度、一回限りの絶対的な思い出になっている。